数学は理解する学問だもの
(数字であそぼ.(1)第1話)
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数学は理解する学問だもの
(数字であそぼ.(1)第1話)
(数学に限った話ではないが,)数学を勉強する上で一番大切なのは「理解する」ことである. 理解することから逃げたら,そこから数学ができなくなる.別に理解せずに参考書の次のページを先に読んでもいいし, 重要でないページと考えて飛ばしてもいい.だが,その重要でない飛ばした部分が本当は重要だったとわかれば, わかっていないだろう前のページに戻って考え,理解しなければならない.
理解することから逃げるとは,主張を鵜呑みにして自問自答しないことである. 例えば「微分は傾きである」という参考書の主張を考えてみる.微分の概念・定義からすれば, 微分が傾きであるという主張は正しいかもしれない.先人による数学の整理や参考書の上では, 微分が傾きであることを受け入れれば学びやすい. しかし,どうして微分は傾きとして考えていいのか自問し,(先人と同じ整理となったとしても)自答しなければ 理解できたと言えない.逃げるとは主張を鵜呑みにすることである. (ちなみに,私は微分は集合の境界の線形近似と理解している.)
逆に言えば,理解するとは主張を自問自答することである.
定義を覚えたり,証明をそらで書けたりするのは良いことだが,理解した上でそれができていないと意味がない. 数列がある実数に収束することの定義を書けただけで理解した気になっていないだろうか. どういうことなのか自問自答しているだろうか.何をしてもいい,理解しよう.
理解しているかどうかを判断するには,
を確認しよう.
知識が孤立しているとは何か. それは参考書に書かれていることでわからないことがないだけの状態である.
例えば,群論を初めて学ぶとしよう.普通の参考書は群の定義がされる.演算が定義され, 逆元があるだとか単位元があるだとか書かれている.具体例を示されたりもする.これらを読み, あなたは定義に書かれていることでわからないことはない状態になった.でもこれは知識が孤立している. わからないことがないだけの状態だからだ. この例で言えば,群の定義でわからないことがない程度では,群の意味はまったくわからないからだ.これでは理解できていない.
群論を学ぶなら,集合や写像について少しは知識があると思われる.関連する既知の知識と結びついているかは, 集合や写像と群はどう関連しているのかわかるということだ.群を集合や写像で表せられれば,結びついていることがわかり, 理解していると判断してよい.
- 数学的な概念の定義を学ぶ.
- その概念に対する命題や定理の証明を理解する.
- その命題や定理を使って,具体的な問題を解く.
(数字であそぼ.(1)第2話)
数学を勉強するということは,引用の3つをやることである.ただ,これらも理解することが壁として立ちはだかる.
線形代数や微分・積分学など,それらの概念を数学的に定義し,それをもとに理論を発展させて数学的事象を解明していく.
定義を示されても意味がわからないことはよくある.問題を解いても,具体例で確かめてもわかっているのかわからない.
定理の証明の中で,定義を使う必要があるから定義を使うけど,そもそもこの定義の意味がわからない.意味はわからないけど,考えてもわからないし,ここで止まっていると全然進まないし,そのまま進む.しかし,定義さえも最終的には理解しなければならない.
定義をもとに発展させた理論を命題・定理を記述し,整理する.それら命題・定理がいかに正しいかということを証明という形で説明し,説得する.
まず,命題や定理の主張そのものの意味がわからないことがある.数学的な主張はわかるので,証明に挑み,論理はうまく構成できて,証明ができたことで,理解できたと誤解する.
証明の中で使われる命題・定理が証明する命題・定理とどう関わっているのか分かり,これまでに自身が理解した命題・定理の主張と整合性がとれたとき,証明が理解できたと言える.
演習書でも自習書の演習問題でもいい.理解を確認する上で有用である.しかし,定義・命題・定理が理解できたとしても必ず解けるとは限らない.自分に合った問題だけが用意されているわけではない.問題の出題背景がわかればよいことも.全部解き切るなどは考えないようにし,気軽に考えよう.
証明が理解できたことで,命題・定理の主張もわかった気になってしまう.それは誤りであることもある.命題・定理は数学用語で簡潔に整理・記述され,それ自体を証明以外で詳細に説明されることはあまりない.
この簡潔に整理・記述された命題・定理の主張さえ,(自分で噛み砕いて)理解する対象である.